昭和29年(1954年)の4月から5月のある日のことだった。
今年から数えてもう52年もまえのことなのに、その日の出来事は、まるで昨日起こったことのように、今でも、鮮烈に覚えている。
この時、私は大学を出て二年目、今はもう無いが、当時としては大手百貨店だった、白木屋(その2年後に東急百貨店に合併)の紳士服仕入部に勤めていた。
役職は仕入れ係。今流に言えば、バイヤーかファッション・コーディネーターという所だったろう。
この日、仕事で親しくし、後には我々夫妻の仲人をしてくれた倉橋氏(元エドワーズ社長)が、一風変わった人を連れてきたのである。
バッグの中から取り出したジャンパーを見て、私たちは「アッ!!』と驚いて声をのんだ。うす暗い仕入部の電灯の下でも、そのジャンパーは、抜けるようなスカイブルーで、しかもカラークロスには、真っ赤な色を使ってあり一際輝いて見えた。このブルー・プラス・ホットレッドのコントラストは、ダークなものが主流の当時のメンズウエアでは、考えられなかった配色だったのである。
小僧からたたき上げてこの道30年、さわれば生地の目付け(重さ)などピタリと当てる、といわれていて、業界でも有名だった上司の高橋部長は、私以上にびっくりしたらしく、「これ、男の着るものですか?」などと、見当違いの質問を放っていた。「そうですとも・・・」と、この紳士はにっこり笑って、当時婦人画報社から発行されていた「男の服飾(メンズクラブの前身)」にすらすらサインをした。
そのサインは達筆で“石津謙介”と読めたのである。
我々は、この、当時としては超前衛的なウエアを取り扱うかどうかで会議をした。「とにかく、結果はどうでも、置いてみたい・・・」強く主張した私の意見が通って、この石津氏デザインの一連のウエアは、Gケース(ガラスケース)2台分に並べられた。
ところが、これが、我々の不安をよそに飛ぶように売れたのである。
朝鮮戦争も終わって、特需景気で国力も回復に向かい、町には力道山が大活躍する街頭テレビに人々が群がっていた頃の話である。
私は、このブライトカラーのウエアに、メンズファッション界が、ある一つの時代を迎えたことを知ったのである。
もっとも当時は、石津先生もVANというブランドは使っておられず、又、アイビーなる言葉が日本の雑誌に登場するのは、それから2〜3年たってからである。