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7時に出発する飛行機に乗るのに3時にシティ・ターミナルに集まる?旅行エージェントの電話を聞いた時、私は、何かの間違いだと思った。
時間ギリギリまで仕事をやっていて、飛び乗りが得意の私にとって、こんなに不便なことはない。成田はまったく遠い。もしこれが香港などの近距離なら、空港に行く時間で、向こうに着いてしまうではないか。
そしてまた、この遠さを象徴するかのように7時発のパンナム005便は、出発が何と2時間も遅れた。
そのためロスアンゼルスでは、完全に、予定したTWAにコネクティングしなくなり、パンナムのカウンターで、係員とやり合って、アメリカン・エア・ラインの最終便を、1席だけ空けてもらってこれにもぐり込む。
ニューヨークがまたニューヨークで、乗ったタクシーが、こちらをお上りさんと見たか、わざと遠廻りをして、普段なら17?18ドルで行けるところを、メーターは25ドルにもなる。
もう争う気にもなれず、いささかぐったりして、パーク・アベニューの小さなホテルに着いた時には、深夜の2時を廻っていた。
出だしからこんなでは、今回の旅行はあまりサクセスフルにいかないのではないか?こんな予感がちょっと頭をかすめたが、私の会社がタイアップしている、ニューヨークの高級メンズ・ショップ<チップ>の社長、ポール・ウィンストン氏が非常に親切なのに助けられて、仕事のほうだけはバカにうまくできた。
そしてその仕事の途中で、これからこのストーリーの主人公となる不思議な人物と会うのである。
ようやく時差ボケも取れかかったある日、私は1290ビルのクレイトン・シャツに副社長のステーブン・B・タンガ氏を訪れた。このビルはトウエルブ・ナインティ・ビルデングと発音し、ファッション関係者だったら、誰でも知らないものはいない、有名なファッション総合ビルである。
副社長ミスター・タンガは、クレイントン・シャツが大会社なので、トラディショナル・スーツを着込んだ、年配の人かと思ったが、案に相違して、チノ・パンツにスポーツ・シャツを着込んだ、29歳の若者だった。
クレイントン・シャツの三代目と聞いてなるほどと思う。そして、これがまた日本の諺にある三代目とは違って、颯爽としていていかにもキレものそう。きっとアイビー・リーガーだろうと思って出身校を聞いたら、生れ故郷のノース・キャロライナ大学を出たそうである。
話が横道にそれてしまうが、それはさておき、このクレイントン・シャツでは、私は<カントリー・ロード>のラインがとても気に入った。
適当に落着いていて、そのくせ新しさがある。そして値段が安いのである。私はこのラインをデザインしている男、ロバート・ストックに非常な興味を持った。
ラルフ・ローレンの下で3年働いていたというから、彼みたいに鼻もちならないスター意識の強い男だろうか、あるいは、サル・セザラーニみたいに、ブレザーをきっちり着こなす気持ちのよい人物だろうか‥‥しかし、われわれの前に立ったのは、ニューヨークのデザイナーの典型的な格好であるオックスフォードのボタン・ダウン・シャツに、ブルー・ジーンズをはいた、スリムなひげ面の、おとなしい男だった。
「一部分でなく、ホールラインを見たい‥‥」といったら、「それなら、水曜日に、グリーンズ・ブロー (ノース・キャロライナ州)で、セールス・ミーティングがあるから来ないか、そこでなら全部見せられるよ‥‥」と言った彼。それでも、熱心に、そこにあるサンプルを説明してくれた。
約束の水曜日に私はニューヨークから、グリーンズ・ブローに飛んだ。ジェットで約1時間あまり、クレイトン・シャツのヘッドクォーターのあるところである。
ところが、そこには彼はいなかった。何があったかは知らない、ちょっとした会社とのトラブルか、それとも前々からの計画か、とにかく、その前日に彼はクレイトン・シャツを退社していたのである。
それ以来、ボブ(ロバートの愛称)とは会う機会がない。
そして9月29日(ニューヨークでは28日)、私は、ニューヨークから国際電話を待った。この日に、ニューヨークのFIT(ファッション・インスティテュート・オプ・テクノロジー"ニューヨーク・ファッション工科大学")で、コティ賞の発表があるからである。
ニューヨークには本誌でおなじみの太田伸之君がいる。そして太田君からの国際電話は、ロバート・ストックのコティ賞受賞と、ビル・カイザーマンの特別賞受賞を伝えてくれたのである。そして「ロバート・ストックも意外だったらしく、会場での彼の名前が呼ばれた時、一番驚いたのは、本人だったみたいですよ‥‥」といって電話は切れた。
今回のコティ賞には、彼のほかに、ビル・カイザーマンとジャン・ポール・ジェルメーン、そして、若いチャールス・サーポンがノミネートされていた。
そして、私と会ったジャーナリストは誰でも、そして私自身も、この中ではロバート・ストックの可能性がもっとも薄いと思っていたのだ。
事実、彼の作品(というより製品といったほうがいいのかもしれない)である。"カントリー・ロード"のものは、サックス・フィフス・アベニューやブルーミングデールスや、ニーマン・マーカスには置かれていない。
大衆デパートのメーシーでも、他の商品と混ぜて、彼の名よりもむしろ、"カントリー・ロード"aのプランド名で並べられているだけだ。
しかし、ボブが 選ばれたと聞いたとき、その理由は後で述べるが、私はアメリカのジャーナリズムの良心を知り、80年代の足音を聞いたのである。
何はともあれ、話を本題に戻して、78年のコティ賞受賞者、ロバート・ストックと、ビル・カイザーマンについて述べなくてはならない。
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