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Shiro Itoh’s Archives-(1)-1
( 林 邦雄 ・ ファッション評論家  1982年「男子専科」9月号より )

(1)日本のヤングマン・マーケットは白木屋の「バーシティ・ショップ」から始まった

日本のメンズファッション界は今、トラッドブームである。学生間のアイビー熱は今も続いている。根強い人気である。
「男専」に連載した「メンズファッション紳士録」の取材で、僕は、戦後のメンズファッションを形成した多くの"立役者"達と会見した。日本のトラッド派の大御所達がすべて登場してくる。
星野醍醐郎氏 などはまさに正統派のトラディショナリストで、英国紳士服の"憲法の番人"的存在である。保守本流だ。
この道の先達、三木晶氏になると、もう少し発想が柔軟で、トラッド・アーチストとったところだ。
ことし一月「ホッドドック・プレス」誌でニューアイビー宣言をした石津謙介氏は、ニューアイビー党党首である。
ニューヨーカー率いる小林三郎氏は多国籍トラッド派なら、VANでアイビーブームをプロモートしたり、KENTを誕生させた、くろす・としゆき氏はカストム・アイビーというところだ。くろす氏の別名は日本トラッド派の総本山"である。
トラッドのもう一方の旗印、オーセンティック・アイビーを看板にするマクベスの社長、伊藤紫朗氏は、さしずめマス・アイビーといったところだ。無類のナチュラル・ショルダーの信奉者である。
 日本でトラッドというと、すぐにアイビーとアメリカン・トラディショナルのふたつのモデルを指すほど、今日ではトラッドの代名詞のようになっている。
 それは、昭和39年に爆発したアイビーブームがいかに衝撃的であったかの証明でもある。アイビーの広がりは、若者達にとっては色彩のない砂漠地帯に生まれた"コロンブスの卵"的偉業であった。
 戦後ヤングファッションの最初のクライマックス・シーンであるといっていい。全国のデパートにヤングマンコーナーが設けられ、VANショップが主要都市に誕生した。
 もとより、こうしたヤングマンブームが降って湧いたようにおこったものではない。戦後デパートで最初にヤングマンコーナーが設けられたのは、昭和31年。白木屋に誕生したバーシティ・ショップである。

このバーシティ・ショップを企画、推進したのが伊藤紫朗氏である。伊藤もまた戦後メンズファッション史をいろどるひとりだ。

伊藤氏は東京生まれ。兵庫県伊丹中学を卒業、立教大学経済学部を出ると、昭和28年白木屋(現東急)に入社、紳士服部に配属された。
「入社して間もなく、レーンコートのダイレクトメールがありましてね。驚いたのはレーンコードを買いに来たお客が白木屋の周りを二重、三重に囲んで列をつくったことがありました。」まだ、衣料不足だったんですね。売場の品揃えも不足気味で、岩本町によく日参して、背広を仕入れに行きました。品物があれば何でも売れた時代でしたね。当時は。若者のファッションなどありませんでしたから‥‥」
伊藤氏は、そんな当時を愉快そうに回想する。
イヤーラウンド・スーツ? 一年中着られる背広という新案スーツを発表して大きな話題を巻き起こしたのも氏である。

 
この発想が愉快で、白木屋に就職したとき伊藤氏は背広一着と替え上着一枚だけしか持っていなかった。冬の背広を着てお中元やお得意回りをした。これではたまったものではない。
何とかならないものかと、背ヌキと夏の半ウラの中間を行く"七分ウラ"を研究開発?して取り入れたのが、この新案スーツだ。
毎日新聞の原田佐久記者が取材にきて、このイヤーラウンド・スーツを家庭欄に大きくとりあげた。昭和30年11月28日の紙面である。
若いサラリーマンが、一枚看板で四季を通じて着られる背広という、サラリーマンのせっぱつまったアイディアから生れたこの新案スーツは大反響を巻き起こした。

これを読んだ一洋服業者から「こんな背広が普及したら、われわれは全滅だ」とか「業者にはマイナスな仕事を、デパートの洋服部に勤めている人が宣伝することはもってのほか」という投書がまいこんだりしたそうだ。

「男専」でも取り上げてくれまして、取材に来たのが入社早々の志村敏さんで、とてもスマートな青年記者というのが印象でしたね」と、氏は微笑んだ。
 
 

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